ダダ日記ダダダ

ただただ日記。推し量ってくれれば。

昨日の続きみたいにこのブログもしれっと。

 「特に連絡を取り合ったりする訳でもないが、久しぶりに会った際に昨日の続きのように話が出来る人を友達だと思う」という旨の言葉を昔、伊集院光が言っていた。

 

 

ずっとこの言葉に至極共感している。忘れたことがないくらいに脳みそに刺さっている言葉だ。

 

 

iPhoneが端末内にある写真のデータを勝手に整理して、同じ人物が写った写真をピックアップし、「この友達の写真をまとめますか?」と提案してくる。一緒に写真に映る仲なので勿論友達だと言って何ら差し障りないのだが、iPhoneから言われる筋合いはないと苛つく。

 

苛つきながらも、いつの写真だろう?と見ていると、まだ誰もマスクを付けていない写真まで遡る。何の憂慮もなく楽しめている当時の写真を見て、感傷的になりやすい私は憂いの多い現在に溜息を吐く。

 

さらにデータフォルダを開いて全ての写真をぼーっと眺める。

 

携帯で写真を撮るようになったのは恐らく4年くらい前からのことだ。それ以前の写真はよっぽど何かない限りは何のデータも残っていない。

 

 

そのどこにも写ってない友達と偶然に会えた。

 

たまたま通りかかってこちらを見つけてくれて、その上、話しかけに来てくれた。

 

用事があると一旦別れたが、その後再度集まり酒を飲んで話した。

 

昨日の続きのように以前の話も最近の話もし、頻繁に会っていた頃、写真を撮るなんてしていなかったから、その当時と同じように写真など撮らずに帰った。

 

全く変わっていないなんてことはなく、私は昔はもっと深刻な人間だった。いつも全てのことに悩んで、酒を飲んでいてもどこか暗く捻くれて喋っていた。今はもう少し明るく、捻くれたまま、はしゃいでいた。

 

深刻で感傷的で憂いばかり眺めて溜息をつき、なぜこんなに苦しいのか?という気持ちを他人に強く言わなくなったのは大人になったなあと思った。

同じことを言うにしても笑いながら明るく落ち込まずに言えるようになった。

それでも、いくら明るく言うにしても言う相手は自分が正直に話せる人を選んで他人に気を遣わせないようにと心がけている。

 

そんな憂慮をせずに、話せる友達に会えたことで、大人としての緊張感が緩んで安堵した。

 

 

 

未だにタバコの吸える喫茶店の中から道路を眺めながら書いているが、人も車も何年か前と変わらないくらい行き交っている。

 

全部嘘で、まだ大学生の夏休みかと勘違いしそうだ。

 

 

このブログを褒めてもらった唯一友達に会えたからうだうだと書いてしまったり。